終了報告 末延芳晴 【2012/01/12 14:19:24】[返信][削除] 1月10日午前0時15分、東日本大地震と空前絶後の大津波の襲来で行方不明になり、いまだに遺体の発見されてない方々のご冥福を祈りながら、「断食イン」終了しました。
新聞などの報道によりますと、昨年12月9日現在で、死者総数は1万5,841人で、内行方不明者の数は3、439人。その内訳は岩手県が1,388人、宮城県が1,880人、福島県が221人、千葉県が2人、青森県と茨城県が各1人ということです。
おそらくこれら行方不明になられた方々のほとんどは、押し寄せた津波の引き波と共に海の底に引きさらわれて行ったのでしょう。ということは、今も、暗く、冷たい三陸沖の海の底で、3,439人の死者たちの霊魂が絶望の涙を流しながら、いつの日か発見される日の来ることを待っているということです。
ですが、陸地ならばともかくも、海の底の遺体が発見されることは、まずないでしょう。ならば、私たちは、どう彼ら、彼女らを追悼し、無念の思いを晴らしてあげればいいのか。方法は三つあると思います。一つは、広島の原爆ドームのような被災のシンボルとなるような事物(たとえば、陸地に打ち上げられた漁船とか)を記念として残し、毎年3月11日に追悼式を行うこと。二つ目は、同じ災害を2度と起こさないよう、日本人の持つ知と技術力を総動員して、完璧な防災体制を作り上げること。三つ目は、能のような芸術的表現をとおして、死者たちの魂を鎮めること。
1番目については、悲惨な思い出を将来に残したくないという被災された方々のお気持ちは重々わかりますが、ここは、原爆ドームを残すことによって、核廃絶と世界平和を訴えようとした広島市民の英知と勇気に見習ってほしく思います。何も残さなければ、喉元過ぎれば熱さを忘れるで、再び同じ災害に見舞われた時、同じような死者を出し、行方不明者を出すことでしょう。
2番目については、国や地方自治体が、今回の災害から何を学び、将来に向けてどのような防災対策を打ち出すかにかかっていると思いますが、これだけの死者と行方不明者を出しながら、被災者救済と防災体制の整備に向けた来年度の予算が、防衛予算よりかなり少ないという現実を知るにつけ、この国の指導者たちの意識の低さにはあいた口がふさがりません。ですが、だからと言って、手をこまねいて見ているわけにはいきません。原発の是非を住民投票で決めるため、大阪市民が署名運動に立ち上がった結果、必要数が集まり、議会で審議されることになったことを、2,3日前の新聞が大きく報じましたが、まさにこのように市民が立ち上がり、「ノン」の声を突きつけ、政治を動かして行く、いま、そのことが何よりも大切なのだと思います。
3番目については、ミュージシャンを筆頭に、さまざまな人々が「被災者に元気を!」とイヴェントやパフォーマンスを行っていて、それはそれで結構ことなのですが、この災害が根本的に突きつけている問題をきちんと受け止めたうえで、それぞれの仕事の場で犠牲者たちと向かい合ってるのかどうか・・・・・。そこのところがあいまいなままだと、「俺はやった」、「私もやった」・・・・・と自己弁護のオン・パレードになってします。
ここで、根本的な問題というのは、今回の災害が、福島原発事故も含めて、私たちが「水」をあまりに粗末にし、その力を無視してきたことに対する、「水」の側からの復讐だということです。
「水」は私たちに様々な恩恵をもたらしてくれます。「水」は、太陽の光と空気と土と火と並んで、私たちに生命をもたらしてくれる源泉です。特に、日本は「水」の資源に恵まれてきたことで、「水」の恩恵をフルに受けてきました。ですから、日本人は原始の時代から「水」を尊び、「水」の持つ恐ろしい破壊の力に対して畏怖の念を抱いてきました
ところが、戦後、経済の復興と高度成長が目覚ましく進む中で、私たちは「水」を思うさま酷使し、使い捨て、汚してきたにもかかわらず、「水」への感謝の念を忘れ、「水」を畏怖する気持ちも捨て去ってしまいました。福島原発の原子炉があんなにももろく壊れてしまったことが、そのことを何よりも明らかに物語っています。「水」の恐ろしさを甘く見てしまった、そのことのツケが今回の災害の最大の原因と言えるでしょう。
文学であれ、音楽、美術、舞踏・・・・・何であれ、今、表現の世界で犠牲者追悼のために何かを成し遂げようと思っている人は、すべて「水」と正面から、徹底的に向かい合い、まず最初に、「水」に対する畏怖の念を蘇らせることが求められている。いえ、それは表現にかかわる人だけでなく、政治家も経済・産業人も商業にかかわる人も、学術・教育にかかわる人、医療や福祉にかかわる人、一般市民も含めて、すべての日本人に求められていることと言えるでしょう。
ところが、そのことを自覚している人が一体何人いるのでしょうか。被災者の救済や原発中止について語られる言葉が、時として上っ面だけのもののように聞こえてしまう、原因がそこにあるのでないでしょうか。
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